第15回受賞作品つたえたい、心の手紙
第15回受賞作品紹介(6作品)
令和4年5月1日~10月31日までの期間に募集しました、第15回「つたえたい、心の手紙」は総応募数1,112通の中から、審査員による厳正な選考の結果、下記の方々が受賞しました。 今回も数多くの方にご応募いただき、誠にありがとうございました。
受賞作品一覧
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母の「伴走者」から「後継者」となる!
「お母さん、マラソン走ってみたい。一回限りだろうから、明日から一緒に走って!」
お母さんのその言葉で、私達母娘の二人三脚でのマラソン人生が始まったね。
「継続は力なり」「出来る人と違って、出来なければ人の何倍も何十倍も努力しないといけない」と言い、たゆまぬ努力を重ね、マラソンが生き甲斐となったお母さんは、いつしか「一回限り」を「一生走る」に言い換えていたよね。
走り出して三年目、「一回限り」との思いで参加したホノルルマラソンだったけれど、すっかり魅了され、三十二年間参加出来たね。
走歴十年を記念し、「一生一度の思い出作りに」と、百キロウルトラマラソンに挑戦したお母さん。ウルトラマラソンの魅力にも触れ、計八回の百キロレースを走破したお母さんは、やっぱりスーパーウーマン!
次々と自己の限界に挑戦し、それをクリアするお母さんの姿は、私をワクワクさせ、「不可能なんて無いのでは」と思わせてくれた。
お母さんと過ごした四十七年間、伴走をした三十五年間を、「本当に親孝行だね」と多くの方に言われたし、お母さんにもいつも感謝されたね。お母さんは、「ただ『ありがとう』の言葉では気が済まない」と、心のこもった感謝の言葉と共に、毎日繋いで走ったお母さんの左手の手形が押された感謝状もプレゼントしてくれたね。
でも、私としたら、二十二歳で失明し、死を選ぼうとした時期もあったお母さんが、マラソンを転機とし、「私より幸せな人がいるのかしら」「目で感じる光は無いけれど、心はいつもいい天気!」と言いながら、輝いて生きている、そのお母さんの側に居られることが本当に幸せで、私の原動力でした。
恒例のホノルルマラソンより帰国後、癌が発覚、病勢が強く、半年で天国に旅立ってしまったけれど、お母さんの強い思いは、一緒に歩んだマラソン人生の中で、しっかり受け継いでいるからね。
「三キロから始めたマラソンが、百キロまで走れるようになった。まさに継続は力なり。マラソンに出逢い、生きる喜びを感じられた。この喜びを、一人でも多くの人に伝えたいし、味わって欲しい。人生を無駄にせず、誰かの役に立てる生き方がしたい!」
お母さん! 今後は、「伴走者」から「後継者」となって、お母さんの強い意志を継ぐから、どうかずっと見守っていてね! -
えっちゃんへ
忘れもしない二〇一一年三月十一日、あなたは激しい揺れと迫り来る津波に立ち向かい、自分の命を犠牲にして子供達を守りました。恐怖に戸惑い、泣き叫ぶ子供達の安全を第一に考え、一人残らず無事に避難させるため、最後まで誘導していたそうですね。いつも、自分のことより人のことを思いやる、えっちゃんらしいと思いました。でも、どんなに怖かったでしょう。悔しかったでしょう。無念だったでしょう。
当時私たちは、長年の夢を叶えて教師になったばかり。あなたは地元の小学校、私は東京の高校に就職が決まり、お互い期待に胸を膨らませていましたね。私たちはそれぞれの場所で研修を受けていたところでした。そんな時、突如東日本を襲った大震災。共に同じ夢を追い続けてきた親友を失った悲しみから、私はしばらく立ち直れませんでした。それでも、時は無情に過ぎ去るものです。せっかく念願叶って教師になったのに、いつまでも落ち込んでいたらえっちゃんも悲しむだろうと思い、私はなんとか今日まで教師を続けてきました。正直、「もう辞めたい」と思ったことは何度もあります。けれどもその度、高校時代から励まし合ってきたあなたのことを思い出し、「えっちゃんの分も頑張らなければ」と自分を奮い立たせてきたのです。
震災から数年後、私たちの故郷ではあの日の記憶を伝え残すため、津波の到達地点に桜が植樹されました。今では復興のシンボルにもなっている桜並木、見えていますか? あの日あなたが命を懸けて助けた子供達は、来年高校卒業を迎えます。必死に自分達を守ってくれたあなたの姿は、きっと彼らの生きる力となるでしょう。教師として、人として、あるべき姿を見せてくれたえっちゃん、ありがとう。二度と同じ悲劇を繰り返さないためにも、辛い過去を教訓として後世に伝えていくことが、残された者の使命なのだと思います。
私はこれからも、命の大切さ、そして、人のために行動することの尊さを子供達に伝えられるよう、出会った人との縁を生かしていきます。だからどうか、見守っていてね。 -
父さんのアイスクリーム
父さん。季節は正直ですね。
暑かった夏が終わったと思った途端に、秋の風がとても肌寒く感じます。
この季節になると思い出すことがあります。小学校三年のとき、ツベルクリン反応検査で陽性と診断され、入院こそしなかったのですが、三か月ほど市民病院に通院し、その後自宅療養していた時期がありました。
自転車の後部にリヤカーを接続し、私は荷台の上で毛布に包まれ、両手で手すりを支え座っていました。走りながら父さんの背中を見て、大人になったら父さんのように、たくましい人間になろうと思いました。
その年の夏だったと思います。父さんは私に素晴らしいプレゼントをしてくれました。それは手作りのアイスクリームでした。父さんに言われた私は、いつも行っていた駄菓子屋で、かき氷用のブロック氷を買い、細かく砕いた後、塩と一緒に飯釜の中に入れていました。その釜の真ん中に、牛乳と砂糖とたまごを混ぜた液体を、アルマイトの箱に入れ、数分かき混ぜていました。出来上がりを見て私は驚きました。父さんがスプーンですくって、口の中に入れてくれて更に驚きました。この世にこんな美味しいものがあるのかと思うほど美味かった。嬉しくて自然に涙が出たのを今でも覚えています。
「早く元気になるといいな」
父さんは私の頭を撫ぜながら言いました。二軒長屋の扇風機も無い四畳半の部屋で、毎日臥せっている私を見て、父さんはかわいそうに思ってくれたのですね。
私はその後、健康な身体になりましたが、父さんは還暦を迎えた年に、病気でこの世を去ってしまいました。父さんが亡くなる数日前、病院に見舞いに行ったときでした。私は市販のアイスクリームを売店で買い、父さんの口元にスプーンを持っていき食べてもらいました。すると、父さんは心から美味しそうな顔をして微笑み、私が子供のとき、アイスクリームを作ってもらった思い出を話すと、久しぶりに病室に笑顔が弾けました。
最近ではアイスクリームも多くの商品が出回り味も美味しい。けれど父さんが作ってくれた、手作りのアイスクリームにはかなわない。私にとってかけがえのないプレゼントであり、生涯心に残る思い出です。
私は古希を過ぎ、早いもので五年が経過します、父さんの寿命をはるかに超え、元気に過ごしています。移り行く時代の中で、父さんとアイスクリームの思い出を鮮明に覚えているのは、とても幸せで嬉しく思う今日この頃です。 -
一枚の写真
ここに一枚の写真がある。私の結婚式で親族一同で撮った写真。中央には私と夫。左側には夫の両親。右側には私の両親。その周りを囲むように親族が写っている。皆笑顔なのに一人だけ、怒ったような、今にも泣き出しそうな顔をしている。しかも、着ているのは、セーターとズボン。それは私の父だ。
私の家が他の家と少し違うことに気づいたのは、小学校の中学年の頃だった。先生から配られる給食費の集金袋に、お金を入れてもらえるのは、決まって数日遅れてから。ランドセルは誰かからもらったお下がり。家に電話やストーブがない。時々、学校を通じて裁縫箱など学校で使う道具が支給される等々。何より、私の父が他の家のお父さんと違っていた。父は文盲で、耳が遠かった。母にそのことを尋ねると、父は幼い時かかった“はしか”による高熱で耳が遠くなり、知的障害者になってしまったとのことだった。当時は、障害者に対する認知度は低く、日本の社会福祉制度は「申請主義」であるため、父が障害者手帳を取得したのは、私が大人になってからだ。父の両親は、父のことを不憫に思ったのか、父を小学校にあげなかったそうだ。父と母は見合いで結婚をした。当時は、家と家の話し合いで結婚が決められることは、珍しくなかったそうだ。
障害のある父は、低い賃金で土木作業員としてコツコツと働き、その収入で父と母、兄と私の四人家族は、貧しいながらも生活することができた。そんな中でも、社交的な父は近所の人へ話しかけたり、自転車で色々な所へ出かけ、野菜や衣服などをもらってきたりすることもあった。
物心がつき、成長した私は、いつしか自分の暮らしや父のことを恥ずかしく思うようになり、時には強い口調で「そんなに、何でももらってこないで」と言ってしまったこともあった。
私は奨学金を借りて大学へ行き、子どもの頃からの夢であった教師となった。結婚式の前日父に「お父さん今までありがとう」と伝えたが、父は照れくさそうに笑っただけだった。そして迎えた式当日、タキシードに着替えた父は、穏やかな表情をしていた。
式が始まると、父が花嫁の父らしく参列者にお酒を振る舞う姿を私はひな壇から見ることができた。お色直しのため退席した私が、再び入場した時、目を疑う光景がそこにあった。父の姿がないのだ。心配する私に兄がそっと、「おやじが出て行ってしまった」と教えてくれた。そのまま式は進み、父母への感謝の手紙を読むタイミングで私服に着替えた父が戻ってきた。
後から聞いたことだが、父は式が進むにつれて私が家を出ることを実感し、それが嫌で家に帰ろうとしていたとのことだった。父は障害のため、自分の思いを伝えきれず、衣服を脱ぐことで、娘への気持ちを示したのだと思った。同時に無器用な父からの深い愛情を私は受け取った。
父が亡くなって二十一年の歳月が流れた。
今では私は三人の子どもが成人し、あの時の父の年齢に近づいている。幼い頃の私は、何で私ばかりこんな貧乏な家に生まれ、苦労しなければならないのかと憤っていた。しかし、一枚の写真を前にして振り返ると、我が家は確かに他の家とは違っていたが、貧しいながらも、温かいご飯と布団、なによりも笑顔のある家庭であったこと。それは、障害を負いながらも、懸命に働く父のおかげであったことが痛い程よくわかる。今天国の父へ伝えたい。
「お父さん、たくさんの愛を私や家族に与えてくれてありがとう。
お父さんのおかけで、私達家族は、笑顔で幸せに暮らしています。お父さんも今まで苦労した分、そちらでのんびりと羽を伸ばして下さい」 -
繁兄ちゃん弁当ありがとう
一九五五年(昭和三十年)僕が中学生のときだった。幼いころ両親を亡くしていた僕は、母方の次男であった叔父の家で育てられていた。福岡筑豊炭田の街、飯塚市の炭鉱で、一番過酷な採炭夫として働いていた。ある日の健康診断で、繁兄ちゃん(僕は叔父のことを繁兄ちゃんと呼んでいた)は胸に影が見つかった。その為炭塵を吸う地下の重労働は出来ず、地上の守衛や雑務の軽い仕事に替わった。たちまち、減給になり幼い二人の子を抱えた繁兄ちゃん夫婦は路頭に迷った。
そんなある朝、僕の学校に持って行く弁当に詰めるご飯が、ときたまない日があった。そんなとき繁兄ちゃんの「昼までには必ず弁当届けるからな」という言葉を信じて家を出た。昼の学校の鐘が鳴ったが、その日は繁兄ちゃんの姿は見られなかった。僕は隣の子に「弁当忘れた。お腹が痛い」と言って席を立った。外に出た僕は、校舎の板壁にもたれて日向ぼっこをしたり、砂場に行って穴を掘り、木陰に座って想いにふけった。繁兄ちゃんが薬を飲んでいることは知っていた。
箪笥の中のズボンが、嫁の着物が一枚ずつ減っていくのも。繁兄ちゃんは、質屋に行ってお金の工面をしていたのだ。嫁は家族の為に、ヨイトマケ(建築現場で、地固めの時大勢で重い槌を滑車で上げ降ろしすること)の綱を引いていたのだ。足りない配給米を補うために。僕は家計を少しでもと思い、朝のみそ汁に入れる豆腐を首から吊した四角い木の箱に入れて炭住街を回った。焼け石に水であったが繁兄ちゃんは「無理するな学校で眠くなるから」と気をつかってくれていた。
繁兄ちゃんは、僕の弁当を届ける途中、田んぼのあぜ道で血を吐いて倒れたことを知らされた。親代わりになって僕をほんとうの弟のように可愛いがってくれたそれだけで、充分であったのに。繁兄ちゃんは弁当を握りしめ昼に間に合うように駆けたのであろう。
あれから六十余年、「無理するなよ」の言葉を支えに僕は生きて来た。
なぜ僕は「ありがとう」の一言が言えなかったのだろう。もっと、もっと繁兄ちゃんに感謝の心があらわせなかったのだろう。
八十歳になった僕の命を、今まで繋いでくれた繁兄やん。あのとき言えなかったありがとうを大空に向かって叫ぶのであった。 -
母の手作り弁当
お母ちゃん、そちらの世界も、紅葉が始まりましたか? 我家の前の桜の木の葉も美しい秋の装いになりました。
この季節になると、お母ちゃん、私決まって小学校時代の修学旅行を思い出すの。
物資不足の戦後間もない私達の修学旅行は、皆んな二合づつのお米持参のバス旅行でしたね。
朝早く、コトコトと音がする台所を覗くと、お母ちゃんが背をこごめて一心に私の弁当作りをしてくれている姿が目に入り、何だか悲しい程有難かった事を思い出すの。
初めてのバスの長旅、実はあの時、車酔いで私はせっかくのお弁当を食べれなかったの。
新聞紙に包まれたその弁当に、お母ちゃんが大きな字で「旅は楽しいですか?」と書いてくれた文字を見て涙が出そうだったの。
旅館に着いて、いよいよ夕食という時、私は手つかずのお母ちゃんの弁当を思い出し、子供心にお母ちゃんが可哀想で捨てる事が出来なかったの。
そっと部屋の片隅で開いて食べようとした時、担任の先生に見つかって「もうすぐ夕食ではないか! そんな弁当は食べるな!」って叱られたの。私は悲しくて悲しくて、あの時とうとうお母ちゃんの愛一杯の手作り弁当を食べる事が出来なかったの。
帰ってお母ちゃんに「弁当は、おいしかったかね?」と聞かれたけど、私は涙が出そうで、ただ「うん」と頷いただけ……。
お母ちゃん、あの時はさぞがっかりした事でしょう。お母ちゃんを喜ばせる返事が出来なくて、本当にごめんなさいね。
秋の季節になると、歳を重ねた今でも、あの修学旅行のお母ちゃんの手作り弁当の事が想い出されて、お母ちゃんが無性に恋しくなるの。
戦中、戦後の苦しい中、よくぞ八人の私達兄妹を育ててくれて本当にありがとう。
子供の頃、お母ちゃんが擦り切れた着物の裾を繕っている姿を見て「私が大人になったら絶対良い着物を買ってあげよう」と思っていたのに十分な親孝行が出来なくて、本当にごめんなさいね。
お母ちゃんとの最後の別れの時、私が耳元で「私はお母ちゃんの娘に生まれて、幸せだった」と言う事が出来たのが、たった一つの私の親孝行だったと今思うの。
お母ちゃん、そちらの世界でどうぞお心ゆったり幸せでありますように祈っています。
- 前掛け姿の母さん
- 千葉県
- 佐藤ヨキ子 様
- 79 歳
- いつも一緒
- 東京都
- 森本謙四郎 様
- 88 歳
- 繋がる思い
- 神奈川県
- 山形明美 様
- 53 歳
- ひまわりさん
- 大阪府
- 平田幸子 様
- 67 歳
- 私が終生尊敬する貴方へ
- 福岡県
- 遠城寺恵美子 様
- 90 歳
- 決意表明
- 愛知県
- 豊田舞 様
- 24 歳
- お父ちゃん ありがとな
- 兵庫県
- 溝口禎之 様
- 61 歳
- 母の干ぴょう
- 北海道
- 高村晴美 様
- 65 歳
- あんこの生きられなかった
老後を生きる - 千葉県
- 小池みさを 様
- 59 歳
- 忘れられない日
- 福岡県
- 金川久代 様
- 77 歳
- もういくつ寝ると
- 千葉県
- 山下信子 様
- 60 歳
- たいした人になる。
- 宮城県
- 鈴木美穂 様
- 30 歳
- お義父さんへ
- 香川県
- 今西るみ 様
- 30 歳
- 最期のエール
- 京都府
- 古川睦 様
- 24 歳
- よーんなーよーんなー
- 沖縄県
- 大冝見果鈴 様
- 27 歳
- 待てど暮らせど
- 広島県
- 種田潔 様
- 71 歳
- 届けたい年賀状
- 長崎県
- 川部えり子 様
- 68 歳
- 母とおばちゃん
- 新潟県
- 山岸陽子 様
- 76 歳
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