第14回受賞作品つたえたい、心の手紙
第14回受賞作品紹介(6作品)
令和3年5月1日~9月30日までの期間に募集しました、第14回「つたえたい、心の手紙」は総応募数860通の中から、審査員による厳正な選考の結果、下記の方々が受賞しました。
今回も数多くの方にご応募いただき、誠にありがとうございました。
受賞作品一覧
-
どうしても聞けなかった事
母さん、私が六年生の時ピアノを習いたいと言いましたね。でも家にはピアノがありません。普通の親なら即座に言うでしょう。家にピアノがないのにできる訳ないだろうと。でもあなたはそんな事を一言も言わずにピアノの先生を捜しレッスンに通わせてくれました。家にピアノがなくても学校にはある。学校のピアノで練習すればいいと。なんという柔軟な発想でしょう。できないと諦める前に、どうしたらできるか考えるという事を教えてくれました。その教えのおかげで私は中学、高校と学校のピアノで練習し、教育大学音楽科に合格する事が出来ました。そして三十四年間音楽教師として勤めました。
母さん、聞かなければいけないのに、どうしても聞けなかった事があります。言わなければいけないのにどうしても言えなかった事があります。
私が教育大学を受験する時、ピアノを買ってくれましたね。おかげで家でたっぷり練習し、合格する事ができました。あのピアノのお金はどうやって工面したのですか。当時町工場で鋳物工として働いていた父の給料では、どう考えても買えないと思うのですが……。あの時、私は嬉しいより信じられなくてわが目を疑いました。ありがとうとも言いませんでした。きっとあなたは私の喜ぶ顔が見たかった事でしょう。でも私は怖かったのです。母さんがピアノを買うためにどれ程の苦労をしたか知る事が恐ろしかったのです。あなたはピアノを買うための苦労を私に一言も言わずにあの世に逝ってしまいました。
母さん、ピアノを買うために何度父に頭を下げたのですか。姑にどんな嫌味を言われたんですか。噂話の好きな口さがない村の人達にどんな事を言われたんですか。あなたの苦しみから目をそらした私を許してください。そして心からの感謝の言葉を言わせてください。 -
一つだけの約束
お母ちゃん。報告です。私は、今年定年退職を迎えました。
あなたは脳腫瘍を患い、闘病生活を数年続け、私が八歳の時に亡くなりました。私の幼い時のあなたとの思い出は、家か病院で横になっている姿が多く、短い期間に凝縮されたものでした。その中でも決して忘れられず脳裏に焼き付いた思い出があります。
幼い頃の私は、あなたの隣で寝ていましたね。私があなたの胸元に潜り込むとそっと手を添えて抱いてくれることがありました。でもある日、気がつくと背中を向けて苦しそうにしていました。
「お母ちゃん、具合悪いの?」 と聞くと、
「大丈夫。頑張るからね。敏夫も頑張って」
と言って私の方に振り返り私を胸元に引き寄せました。その時のあなたの頬が濡れていたのに気がつきました。私は驚いたけれどもどうすることもできず、
「うん。頑張るよ」
と一言だけ答え、体を丸めました。あなたがまた背を向けたので、おんぶでもしてもらうようにあなたの背中にしがみついていました。幼い私は、ただあなたの背中で声を立てずに、涙を流していたのを覚えています。それが、あなたとのたった一つしかできなかった約束となりました。
闘病中は、つらい姿を子どもには見せぬように頑張りましたね。どんなにか私達子どものことが心配で、たまらなく切なかったことでしょう。
あなたが息を引き取った時、あなたの目から涙がこぼれていました。私はそれを見たときに泣くのを我慢して心の中で誓いました。
「お母ちゃん。僕どんなことにもくじけないで頑張るよ。心配しないで見ていてよ」
あれから、五十年以上経ちました。振り返るとあなたとの一つだけの約束に応えたい一心でここまで生きてきたように思います。
お母ちゃん。私はきちんと約束を守れてこられましたか。あなたの子も、私の妻も孫もみんな無事でいます。今まで心の支えになってくれて本当にありがとう。まだもう少し最後まで頑張るから見守っていてください。 -
親父のこころ
我が家は四代続く村の鍛冶屋である。のどかな山里に朝からトンチンカンチンと槌の音が響く。 機械化による大量生産、大量消費がまちの個性と人の美意識を失わせてしまった。と、亡き親父は嘆いていた。
「あの部落の土は石ころが多いから幅の広い鋤(すき)にしよう」「あそこの村の畑は軟らかい薄刃の鍬(くわ)にしよう」「〇〇さんは小柄だから鎌の柄は少し短くしてあげよう」などと、それを使う人や土の性質まで考えて一つひとつ違ったものを作った。時には馬や牛の性格までも頭に入れて、それに合った農具をこしらえたという。人に個性があるように道具にも個性をもたせなければいけない。これが親父から受け継いだ私のポリシーだ。
「ヒロ! 鍛冶屋になる前に人間になれ、ものづくりは人づくりじゃ」親父の口癖だった。貧乏だったが鍛冶屋の面白さ、奥深さをとことん教えてくれた。俺はこのまちが好きだから、人が好きだから、一品生産にこだわり、この仕事に精魂を傾けて鍛冶屋を守っていくよ。
幸い息子がこの仕事を継いでくれている。何よりも心強く嬉しい。とはいえ、時代は変わりつつある。NC機器やCADソフトを導入して息子なりに新しい鍛冶屋を模索しているようである。しかし仕上段階の工程は、あくまでも手作業に拘る。
「個に対応した商品を作ることがオレの流儀さ……」と、きっぱり言い切る。親父譲りの頑固さも頼もしい。
親父が亡くなってもう十年も経つんだね。二人三脚で毎日トンチンカンチンやった頃が懐かしいよ。今は息子とトンチンカンチン汗を流す。
俺も息子も金儲けの野望など微塵もない。ただあるのは、この仕事への〝誇り〟だけだ。熱い職人魂が心を揺さぶるから俺はこの仕事をずっと続けていく。親父の心も伝えていくよ。見守っていてくれよな親父! -
兄ちゃんかあさん
「おとさんとおかさんの所へ、早よ行きたいわ」 いつもそう言って、ベッドで寝ていた兄ちゃん。ちょっとボケてたけど、私が行くといつも目が輝いた。
「千代子か、お前、なんぼになったん」 そう言って、枕の下から四つに折った千円札を二枚くれる。飴買えだの、かりんとう買えだのと、私が小さい時に好きだったものを覚えている。
私が五歳の時、母が亡くなった。父ちゃんと兄ちゃんと私の暮らしが始まった。父ちゃんは畑仕事ばかり。まだ十六歳の兄ちゃんがお母さんになってくれた。
兄ちゃんは何でも出来た。洗濯も掃除も、うまかった。遠足や運動会のお弁当には、巻きずしを作ってくれた。参観日にも来てくれて、冗談ばかり言う兄ちゃんはクラスのみんなの人気者だった。
私が結婚する二か月前に父ちゃんも亡くなり、兄ちゃんが親代わりになってくれた。 「おらも苦労したけど、お前が一番可哀想じゃ。おとさんもおかさんも、早よ死んでしもうての」
門出のとき、兄ちゃんは大泣きした。 五十歳の時、私はバイクに乗っていて大きな事故に遭った。 「もう、バイクには乗るな。死んでしまうぞ」 お見舞いにきた兄ちゃんが叫んだ。それでも、私や家族に重箱いっぱいの稲荷ずしを持って来てくれていた。
兄ちゃん、おとさんやおかさんに会えましたか。おかさんは、私のこと覚えてましたか。おとさんは、私の結婚式のこと聞きましたか。
兄ちゃん、九月五日の命日にお参りに行ったよ。兄ちゃんの好きだった焼酎、持って行ったよ。いつも飲んでたのより、上等のを持って行ったよ。美味しかったでしょ。
兄ちゃん、七十年間も、おとさんおかさんしてくれてありがとう。私は元気ですよ。 -
オカンのお守り
お袋、覚えてるか。高校卒業後、俺が鮨懐石店に住み込みで働いたときのこと。あの時は大変でさ。初めは追いまわしから、前菜場、揚げ場、板場そして煮方と休む暇もなかった。叱られる事も多く、目を真っ赤に腫らして客の前にも立った。何度辞めようと思ったかわからない。何度実家に戻ろうと思ったかも。だけどお袋は何も言って来なかった。その代わり、事あるごとに色んなモノを送ってきたよな。伊予柑に、置物のたぬき。折り畳んだ一万円札。「なんで?」なんて聞かなくてもわかった。伊予柑は「いい予感」って意味だし、たぬきは「他抜き」。つまり他の仲間を追い抜けるように。一万円札は左右の数字を重ねて一億円札に見えるように折る。お金に困らないようにってことだろうか。
そのおかげで俺は八年後自分の店を持ち、その三年後には奄美大島に二号店をオープンさせた。 はじめて店を持つと決まった時も、わざわざ電話をかけてきて「定休日は絶対水曜日にしなさいよ。努力が『水』の泡になるから」と言った。今は大盛況で休む暇もない。水曜日だって店を開けてるよ。お袋の験担ぎも不要だ。
ただなあ。ひとつだけ謎がある。フェリーに乗って奄美に向かう俺に「お守りだ」と言って渡した巾着袋。なぜか一円玉が四枚。「ご縁(五円)」の間違いじゃないかと思ったよ。昔からお袋はよくご縁を大切にしろって言ってたから。でも答えは、多分、違う。それが最近わかったんだ。お袋は、きっと、俺の船酔いを心配してたんだよな。昔、家族旅行で『ははじま丸』に乗った時、あまりの揺れに我慢できなくて全身が汚れるほど吐いた。あの時お袋はありったけのティッシュやタオルで俺を拭きまくったんだ。だからこのお守りはきっと船酔いのためだろう。俺が酔わないように。四枚の一円玉に「酔えん」の気持ちを込めて。
いつか俺が天国に行くときは土産話と一緒にこのお守りを持っていくよ。そのときは二人で懐かしい思い出に酔いしれよう。 -
おいしゃんへ
おいしゃんは私がヨチヨチ歩かない前から大人になるまでずっと一緒にいたね。おいしゃんには子どもがいたのになぜか私ばかりかわいがり、それがいつの間にか当り前になり、おいしゃんの子どもはあきらめていたね。
おいしゃんの愛車は軽トラ。おいしゃんはその日暮しの大工さん。あの軽トラの助手席はいつも私だったね。ガラスを入れてちょっとお金が入ると大きなパフェをご馳走してくれたね。クリスマスには、欲しがっていた大きなおもちゃを持って現れたね。おいしいお店があればすぐに連れて行ってくれたね。私の父が亡くなってからは、私が行きたい所があって電話をすると「今、ガラスを入れよるけん終ったら迎えに行く」と言って必ず来てくれたね。そして山奥のめずらしいそば屋に連れて行ってくれた。父のいない淋しさをふっ飛ばしてくれた。おいしゃんは私を仕事場にもよく連れて行っては馴染みのお客さんに「てっちゃんの娘にしては小さいな」って言われるたびに「姪っ子」って答えてたのをよく覚えてる。
勉強しろとも仕事を続けろともなーんも言わない。ただ愛情だけを父のようにじゃんじゃん注ぐ人。今、私には母も父もおいしゃんもいない。でも私は子どもを育てながら思うこと、あんな風に愛情をじゃんじゃん注ぐだけで子どもは立派な大人になれることを知った。これはどんなにお金を払ってもどんなに難しい大学に入っても学べないことだったよ。
おいしゃんが入院した時、おいしゃんの点滴でむくんだ手をさすった。むくんだ足をもんだ。「おまえをかわいがったかいがあったなあ」って遠くを見ながら言ったね。亡くなる日に病院にかけつけたら目を何度もビクビクさせて合図をしてくれたことわかったよ。それからすぐに天国に行ったけど、間に合ってよかった。おいしゃんのお葬式でおいしゃんの子どもから「あなたがお葬式でおいしゃんに手紙を読んでくれないか」と言われた。
私しかいない、人前で話すのは大の苦手、だけど私しかいない。私は小さい頃から大人になっても過ごしてきたおいしゃんとの思い出の手紙を読んだ。山奥のそば、二人で食べたバームクーヘンのこと。お葬式が終っておいしゃんの子どもが「やっぱりあなたは特別だった、バームクーヘンなんか食ったことねえし」って大笑いしたよ。父も母もおいしゃんも天国。だけどおいしゃんみたいなお母さんになりたい。あの思い出がずっと私を支えています。悲しくても傷ついても起き上がっています。
- 永遠のいたずら
- 岐阜県
- 代財愛陽里 様
- 36 歳
- 君のおかげで
- 三重県
- 杉本結香 様
- 25 歳
- 一枚のスカーフ
- 神奈川県
- 大舘登志子 様
- 72 歳
- 無言の眼差し
- 徳島県
- 渡辺惠子 様
- 62 歳
- 天国のじいちゃん ばあちゃんへ
- 大阪府
- 山田俊信 様
- 63 歳
- 母ちゃんと一緒
- 茨城県
- 益子初美 様
- 67 歳
- 誉め上手なお母さん
- 埼玉県
- 齋藤純子 様
- 40 歳
- 無形の財産をありがとう
- 長野県
- 今井澄江 様
- 83 歳
- 父の後姿
- 神奈川県
- 大野洋子 様
- 52 歳
- お母さんの鼻歌
- 埼玉県
- 宗政由美子 様
- 58 歳
- 大ばばへ
- 千葉県
- 上杉啓子 様
- もったいない精神
- 三重県
- 岩谷隆司 様
- 79 歳
- 父の自転車
- 千葉県
- 伊藤晴夫 様
- 82 歳
- 父さん、会いたいよ
- 福岡県
- 三島正枝 様
- 64 歳
- お母さんへ
- 千葉県
- 内海みつる 様
- 49 歳
- エラ張ってこう
- 東京都
- 川和智美 様
- 31 歳
- おじいちゃんへ
- 東京都
- 斎藤友紀子 様
- 35 歳
- こころの遺品
- 徳島県
- 天竹勉 様
- 65 歳
小冊子プレゼント・書籍のご案内
受賞作品を1冊にまとめた小冊子を毎年1,500名様にプレゼント。
小冊子プレゼントページ