第17回受賞作品つたえたい、心の手紙
第17回受賞作品紹介(6作品)
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令和6年5月1日~10月31日の期間に募集した、第17回「つたえたい、心の手紙」には、合計775通のご応募をいただきました。厳正な審査の結果、以下の皆さまが受賞されました。たくさんのご応募、誠にありがとうございました。
受賞作品一覧
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振り袖姿の私を見て大泣きしたおばあちゃんへ
成人式の振袖を着た私を見るや否や、言葉もなく涙を流したあなたの姿を忘れられません。
確かにあなたは涙もろい人でした。私のへたくそなピアノを聞いただけで泣いていました。お誕生日おめでとうと電話口で言っただけでも泣いていました。
でも、あの日言葉の代わりにぽろぽろとこぼれていたあなたの涙は、特別なもののように思えてなりません。
あなたがなくなってから、遺産を整理するために父が戸籍を取りにいくと、
あなたは、私の祖父とは二度目の結婚であることがわかりました。父、つまりあなたの一人息子は、この事実に驚愕していましたよ。
戸籍を見るに、あなたとの婚姻関係があるうちに、前夫と妾の間には子供が一人できています。きっと今の私と同じ年齢の頃でしょう。
あなたにとっては不本意な嫁入りだったのでしょうか?あるいは、とてもつらい思いをしたのではないですか?
あなたはとても口が堅い人だ。そんなこと一言も生きているうちには話してくれなかった。それとも、そんな過去はとっくにあなたの中で闇に葬った出来事だったのでしょうか。
あなたはその人と別れ、私の祖父と結婚しました。
父を産み育てる前に、女の子を二人産んでいますね。しかしどちらも死産でした。そのことを知ったとき、私は一人の女性としてあなたのことを想いました。
一度目の結婚、そして二度にわたる死産のこと。その悔しさを、無念を私は女として聞きたいのです。
あの日、晴れ着姿の私を見て大泣きしたあなたを、とても抱きしめたいと思っています。
孫の私の前では、そんなことをおくびにも出さない、優しいおばあちゃんでした。過保護なまでに甘く、優しいおばあちゃんでした。
過去については口を閉ざしたあなたの生き方を心から尊重するとともに、次にもし会えたらあなたが背負い続けたその重すぎる荷物を少し持ってあげたいです。 -
じぃじへ
じいじ、大すきだよ。ひーちゃん、てんごくにいけるとしんじてるよ。シールもあげるね。
ずっとひーちゃんとにぃにのことみてて。はなれててもずっといっしょだよ。しっぱいしたときもせいこうしたときもわらわないでみててほしい。ほんとうにありがとう。ひーちゃんはじぃじといっしょにいて、しあわせだったよ。まえ、とうきょうにきてくれてありがとう。じぃじがんばったね。つよいがんにかてるわけがないよね。しんどいときよくがんばった、うん、がんばったんだよ。もういたみはおわり。またうまれかえってね。そしたらいっぱいギュしようね。
ひかりより
作者の母からの寄稿
2023年9月2日、義父が他界しました。
6月に肺癌末期と診断を受け、わずか3ヵ月の闘病生活でした。
香川に住む義父と、東京に住む娘は年に2回会う程度でしたが、とても大きな存在でした。
コロナ禍のため、子供の面会は制限され、娘や息子は一度も会うことなく、別れとなってしまいました。
この手紙は当時小学1年生だった娘が書いたものです。
今回の応募に書き直すことも考えましたが、あの当時のままで…と願い、コピーを送ります。末期の癌だと伝える事が出来ず、子供たちには突然死に直面させてしまった後悔もあります。またひとりで香川に住む義母に前を向いて頑張ってほしい気持ちも込めて、応募させていただきます。
よろしくお願い致します。
※800字には到底およびませんが、1年生の娘のすべての心がつまってます -
お義母さん
お義母さん、あの日のことを覚えてはりますか。
誠次さんと結婚して日の浅い頃、私はトイレを詰まらせてしまいました。実は内緒で業者を呼んで直そうかと思ったのですが、母から、嫁いだらお義母さんには何でも相談、報告をするようにと言われていたので
「どんな掃除をしてるんや」と叱られるかもしれないとビクビクしながら伝えたのです。
すると、一言
「誠ちゃんは、どんなうんこしたんや」
思いもよらない言葉でした。何の事情も聞かず、私を責める訳でもなく、自分の息子のせいにしたのです。お義母さんの温かい心が有難くて涙が出ました。そして、二人で大笑いしましたね。
この時から私は、お義母さんを一生大事にしようと思ったのです。
大正生まれのお義母さんが嫁いだ先は、舅、姑、小姑二人、住み込み従業員が一人という環境で、どれ程のご苦労があったことでしょう。でも
「アホになったらいいんや」とご自分のご苦労をニコニコと笑い話にして、私とは世間でいう嫁姑問題とは無縁でした。
私が誠次さんと口論になった時には、
「あんな優しいお義母さんから産まれたとは思えへんわ」と憎まれ口をたたく程、すっかりお義母さんのファンでした。
晩年、認知症になってもあのにこやかなお顔はそのままで「おおきに、おおきに」と誰にでもお礼を言わはるお義母さんでした。
人は生きてきたように老いるのだと私はお義母さんのおかげさまで学ぶことができました。
私もお義母さんのように優しく温かな人になりたいと思って、今日まで生きてきました。お義母さんと親子になれて、大事にしてもらって、本当にありがとうございました。
私は幸せ者です。 -
やっと言えた母への「ありがとう」
「貴女は学校に行きなさい」という言葉にぐっと押し出されるように玄関を出る私は「学校なんて行っている場合じゃないんだよ。こんなに心配してるのにどうして?」と、どこか突き放されるようで、しっくりとこないどんよりした気持ちのまま大学へ。片道二時間半。授業中もずっと頭の中は「帰ったらもう息してないかも」でいっぱい。電車が停まる一駅一駅はもどかしくて仕方ないのに家に着くと部屋に入るのが怖かった。掛布団が僅かに動いているのを見ると「よかった。生きてる」ってほっとするのに「明日は息止まってるかもしれない」が追いかけてきて体ごと全部ぎゅっと縮みそうだった。
「もう帰ってこれないから行かない」と頑なに病院を嫌がるから困ったよ。でも意識が心許無くなって白い色しかない病室に運ばれた後、もうすぐ命の終わりが来ることをお互いにわかっているのに、消えそうな意識の中、精一杯の声で「貴女は家に帰りなさい。先生。この子は家に帰して」と叫ぶように言って白衣を掴んで離さなかった。「もういいよ。なんで?そばにいたいのに。もう最後じゃん。もう話せないんだよ。なんで帰れなんて言うの?」ぶつけたくなるぐちゃぐちゃな思いを堪えて家に帰ったけど、きっとすぐにくる連絡を着替えないまま電話のそばでぽつんと待ってた。急いで戻った真っ白な病室はもう何の音もしなくて「だからいるって言ったのに。もう話せないじゃん」悔しさが悲しさとよじれて、ぶつける場所もなく頼りなく立ってるしかなかった。その日からなんだか気持ちがおいてきぼりで、ぷつんと止まったままだったけれど、思い出すと苦しくて痛むから触れたくなかった。でもね。私も歳を重ねて、娘との迷いながら、探しながら、間違いながらの時間を重ねて、ちょっとだけ「母」になれたかもしれない今、ようやくなんで「学校に行きなさい」「家に帰りなさい」って言ったのか、すこしだけわかるようになった気がするんだよ。自分に何が起こっても、取り巻く環境が変わっても、娘の「今日」を守りたい。「日常」を変えさせたくない。チャンスをあきらめてほしくない。自分のために時間を使い、私の存在を背負うことなく自分の人生をめいいっぱい生きてほしい。ただただそう思うから。自分よりも大切な存在の邪魔をしたくない。そんな思いで痛みや恐怖に耐えて、命の終わりを受け入れて、必死に私の「これから」を守ってくれたんだね。生きる姿で「強い優しさ」を、命を終える姿で「優しい強さ」を、私に見せてくれてありがとう。
ちょっと時間がかかりすぎたけれど、やっと言えるよ。
心からの「ありがとう」 -
私の仕事を見守ってね
お父さんは本当に「昭和の男」を絵に描いたような人でした。私が望まない妊娠で困る女性を支援する仕事に就いた時、「どうしてお前がそこまで助けなくちゃいけないんだ?その子たちの家族が手伝えばいいじゃないか」と言いました。「家族に助けてもらえない子もいるんだよ」と何回も説明したけれど、お父さんはなかなか納得してくれませんでした。だから私はお父さんを黙らせるつもりで、「私はちゃんとお父さんに愛されて、助けてもらいました。どうもありがとう。お父さんのおかげで幸せだったので、そうではない子に私がしてもらったことを少しでも返すんだよ」と言ってやりました。
その後、お父さんの病気がわかりましたね。入退院を繰り返すお父さんに付き添う傍らで、私はいつも妊婦さんの相談電話やメールに対応していました。お父さんが大変な時なのに、待ったなしの仕事に追われる私は、少しばかり後ろめたさを感じていました。退院の日の車の中、お父さんは入院中の大変なことをたくさん話したかったと思います。だけど私は「今から大きな困難のある妊婦さんと電話で話をするから、それが終わるまでは黙っていてね」と言いました。今思えば、ひどい娘だったよね。
お父さんは旅立つ前、「なぁ、あの時の妊婦さんは、赤ちゃんはどうなった?幸せにしてるのか?」と私に尋ねました。「ふたりとも、幸せな道を歩き始めたよ」と答えた私に、「そうか。よかった」と嬉しそうに言いました。あの時は、お父さんが私の仕事を認めてくれたみたいで本当に嬉しかった。
「昭和の男」は仕事中心で、べたべた一緒にいた記憶はないけれど、私はお父さんに愛されて、そして守られていました。だから、それを他人に分けられる人間に育ち、今はそれを仕事にしています。お父さんが認めてくれたこの道を、私はずっと歩いていきます。幸少ない子たちも多いけれど、お父さんも引き続き一緒に見守ってね。 -
ここから
勤務先の小学校へ着くと、校庭では子どもたちが、鼓笛隊の練習をしている。もうすぐ運動会。今年は、九月になっても、まだまだ暑い。そんな中、はたをもつ者、腰に付けた太鼓をたたく者、どの子も汗びっしょりで一生懸命だ。
「タタッタタタタッタッター……」。「ボギー大佐」の懐かしい曲に、思わず聞き入ってしまう。小学校の教員をしていた父が、鼓笛隊の指導に使っていた曲だ。子ども心に聴いたそのメロディや楽譜が、それを口ずさむ父の姿とともに、不意に蘇った。
今の私の職業は、「放課後児童クラブ支援員」。働く場所は小学校だ。
四歳のときに小児がんを発症した息子が、長い闘病の末、旅立って八年。私は六十歳になっていた。しばらくは、伸びきってしまったゴムのようにぼんやりと過ごしていた。
まだ六十歳で旅立った父。三十二歳で旅立った息子。今、生のある私は、この先どう生きて行けばよいのだろう。いつもそれは心の片隅にあった。主人が退職する三月の求人広告。
目に留まったのは「放課後児童支援員」。私は六十六歳。それでも思い切って応募した。
「父さん、雄樹、見てくれていますか?母さんは、再スタートしたよ。
経済的に大変な中、進学させてもらって取得した教員免許。今さらながらありがとう。
三十年という長い闘病生活をひたすら頑張り抜いてくれた雄樹。最期は、歩くことも口から食事を摂ることもままならず、どんなにか苦しかったことでしょう。誰かに寄り添うということはどういうことか教えてもらったよ。二人が遺してくれたものを力に代えて、ここから先を生きてみるよ。きっと頑張れるはず」
心は元気いっぱいでも、今朝も、腰には湿布を張りながらだけれど……。
- 先に行ってるね
- 埼玉県
- 中嶋 知子 様
- 62 歳
- もし次の世があるものなら
- 大阪府
- 杉田 節子 様
- 87 歳
- 貴女と私の記念日
- 北海道
- 工藤 郁子 様
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- 浅野 憲治 様
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