第16回受賞作品つたえたい、心の手紙
令和5年5月1日~10月31日までの期間に募集しました、第16回「つたえたい、心の手紙」は総応募数1,124通の中から、審査員による厳正な選考の結果、下記の方々が受賞しました。 今回も数多くの方にご応募いただき、誠にありがとうございました。
受賞作品一覧
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最初で最後の自撮り写真
お母さんが末期のすい臓がんと診断され、余命1カ月と言い渡されたあの日を、今でも覚えています。私は帰宅後、誰もいない家で一人、文字通り膝から崩れ落ちるようにして泣き叫びました。どうして。なんで。別の病気でずっと町医者にかかっていたので、油断していたのです。定期的に診てもらっているのだから、命に関わる病気が見過ごされているはずがないと、楽観的に思っていたのです。ガンの可能性は過っても、そんなに進行しているなんて、治療法も選べない段階にきているなんて、思いもしていなかったのです。
入院中のお母さんは私と違い、泣き叫ぶことはもちろんのこと、誰かにつらく当たることも塞ぎ込むこともなく、いつも通りの振る舞いで、心を削られていた当時の私はむしろ貴方に支えられていました。どうやって、現実を受け入れたのでしょうか。貴方は昔から強い人でした。親になれば強くなるのかと思ったこともありましたが、二児の母になった今も、私に貴方のような強さがあると思えません。お母さんは結局、最期まで懸命に闘い続け、入院してから実に8カ月も私と共にいてくれました。
お母さんが旅立ってから、しばらく触ることのできなかったお母さんの携帯電話をようやく起動出来た時。何気なく開いた画像アプリが最初に表示したのは、こちらを向いて、親指を上げ「大丈夫」のポーズをしているお母さんの自撮り写真でした。それを見た瞬間、私は、余命宣告を受けた日と同じくらい、声を上げて泣きました。『お母さんは大丈夫だよ』なのか、『お前は一人で大丈夫だよ』なのか、今となっては分かりません。でも写真嫌いだったお母さんが自ら撮ってくれた、その大切で力強いメッセージは、今もなお私の背中をそっと押してくれます。だから、この手紙で言わせてください。最高の写真を遺してくれて、ありがとう。ずっとずっと、大好きだよ。 -
おうどん
私には三十年間、一度も口にしたことの無い言葉がありました。母一人子一人の家庭で育った私に無縁の言葉。それは「お父さん」。友人たちが呼吸をする位に当たり前に発する言葉にどれほど憧れたことか。結婚し、初めて父親ができました。嬉しくて嬉しくて一人で何度も「お父さん」って、練習しました。でも、照れ臭くてなかなか言えませんでした。
ある年、帰省していた時、お母さんからお父さんのお昼ごはんを託されました。リクエストはおうどん。お父さんはおうどんが大好きでよく食べていましたね。でも何故かネギが少ししか入っていない素うどん。
「海老の天プラもあげもかまぼこもありますけど入れますか?」。尋ねる私にお父さんは「ネギだけでかまんよ」。私から見ると随分と味気ないおうどんをお父さんは美味しそうに食べていましたね。そして、ポツリポツリと昔話をしてくれましたよね。「わしはな、七人兄弟の末っ子で家が貧しかったけん小学校を卒業してすぐ住み込みの奉公に出されたんや。勉強が好きやったから上の学校にいきたかったんやけどな。仕事はきついし、先輩たちにはいじめられるしつろうてつろうて毎晩布団の中で泣きよった。ある時、兄貴が様子を見に来てくれて一緒に食べたんがうどんじゃった。少しのネギしか入ってなかったけど、とんでもないご馳走に思えてなあ。これを毎日、腹一杯食べられるよう頑張ろうとあの日、誓ったんや」。
お父さんの話を聞いて私はいつの間にか涙を流していましたね。そして、「お父さん。私もおうどん食べていいですか」。自然に「お父さん」と呼んでいました。二人で食べたあの時のおうどんの味は今でも忘れられません。困難にぶつかった時、お父さんの温かい笑顔を思い出し何度も乗り越えてきました。どうしても辛い時はお腹一杯おうどんを食べます。お父さん。三十年間待っていて良かったと心から思います。お父さん、お父さん。連呼する声が天国に届いていますか。 -
先生といる時は障がい者ではなくなれた
天国でも先生をしていますか? 私は先生の開いていた硬筆教室が大好きでした。当時の私は、本当に無茶苦茶な文字を書いていましたよね。小学校ではいつも「読める字を書きなさい」「手を抜かずちゃんと書きなさい」と怒られていました。頑張っても頑張っても怒られ続けて、文字を書くことが大嫌いになっていました。でも、先生の教室だけは違いました。「がんばったね。前回よりもここが良くなっているよ」「お手本をよく見れてますね」と小さな変化を見つけては褒めてくれていました。私の母にも「真剣に取り組んでますよ」と伝えてくれたことを今でも覚えています。
先生が天国へ旅立ってからしばらくして、私に発達障害の診断がつきました。文字のバランスがお手本通りに書いているつもりでもぐちゃぐちゃになっていた理由がわかりました。頑張っても普通の人と同じにはなれないことがわかりました。でも、私は先生の教室で硬筆を習ってよかったと思います。文字を書く努力をしてきてよかったと思います。
私は先生の教室で文字を書くこと以外もたくさん学びました。集中して物事を取り組むこと、諦めない心、小さなことでも褒められると嬉しいということ。あげるときりがありません。私は先生から学んだことを生かして、大学に入ってから数学の家庭教師をはじめました。私も先生のように勉強以外の何かを伝えられる先生を目指しました。
今は、高校でSDGs教育の授業を担当しています。文字はいまだに上手く書けませんが、小さなことでも褒める、結果ではなく取り組む姿勢を褒める、途中で心が折れないようにサポートするなど、先生から学んだことを実践しています。
先生と一緒にいる時に感じた、この瞬間は私は障がい者ではないという感覚を、自分の担当する生徒たちにも感じてもらえるようこれからも頑張っていきます。天国から見守っていてくださいね。それでは、また。 -
魔法の言葉
義母さん、私が初めて貴方に会った日の事は昨日のように鮮明に覚えています。
「初めまして」と言って顔を上げると盲目の女性がずーっと頭を下げていました。
そして「よろしくお願いします」と何度も言われ困惑しました。私は盲目の人と接するのは初めてでどうやって接してよいか分からずここへ嫁に来てよいのかどうかそんな事を考える恥ずかしい人間でした。
義母さんは家事は一切一人で切り盛りし何しろ三人の男の子を立派に育てあげました。
義母さんは何も言いませんでしたが想像を絶する苦労と努力だったと思います。
私は義母さんからたくさんの事を教わりました。
本当の強さそして温かさ。
努力すれば人は何でも出来るということ。
全てが色々な方からのおかげ様で成りたっていること。
そして、ありがとうございますの言葉を忘れてはいけません。
私は義母さんから常にありがとうの言葉をかけてもらいました。
そのおかげで義母さんと私は仲良し嫁姑と近所でも言われていましたね。
晩年義母さんは認知症を患い私の事も忘れてしまいましたがいつもありがとうと口癖のように言ってましたね。
これは魔法の言葉だと思いました。この言葉のおかげで最後まで寄り添えたと思います。そして眠るように旅立ちました。
義母さんを一番心配していたという義母のお母さんと会えましたか? 会えてたら私も嬉しいです。
義母さんが逝って13年、私も姑になりましたよ。
まだまだ義母さんのようにはいきませんが息子のお嫁さんには「ありがとう」の言葉を忘れないようにしています。
義母さんから魔法の言葉を教えてもらいましたので私は幸せな嫁でしたよ。「ありがとうございます」。 -
またね!
ねえ、覚えている? 忘れないよね。私たちがスタートした場所。家賃2万円、六畳一間のあのアパート。楽しかったね。あなたは、からの弁当箱を振り回しながら、「おーい、美佐江、帰ったぞ」とアパートの手前辺りから、大きな声で私に呼び掛けてくれた。私は「恥ずかしいからやめてよ」と言いながらも、嬉しくて、毎日大きな幸せに包まれて暮らしていた。夕ご飯を食べ終えると、二人でちゃぶ台を片付けて、布団を敷く。何をやるのも二人一緒だったね。年子で子供を授かり、流石に四人で暮らすのは無理になり、引っ越したんだったね。あのアパートで過ごした年月の十倍以上暮らしている今の家も、勿論嫌いじゃないけど、私を置いて一人で逝っちゃったあなたを思う時、あのアパートで暮らした日々が真っ先に心に浮かぶ。
緩和ケア病棟で過ごした最後の四か月。思い出話をして笑ったり、離れ離れになってしまう目前の時を思い、二人でおいおい泣いたりして、それでも、あのアパートで暮らした日々と同じで、ずっと二人一緒だったから、すごく幸せだった。
亡くなる五日前、朦朧とする意識の中で、あなたは「家に帰りたい」って言った。私は酸素ボンベやストレッチャー付きの車の手配をすぐにして、病院の先生や看護師さんたちも必要な準備をしてくれた。さあ帰ろうという時になって、あなたは「お前がいるんだから、どこにいても一緒だな。やっぱり帰らない」って言った。薄れゆく意識の中で、あなたが帰りたかった家は、あのアパートだったのかもしれないね。出来る事なら、あのスタート地点に立って、また幸せな暮らしを繰り返してみたいと思ったのかもしれないね。
あなたは、私の手を握り「生まれ変わってもまた一緒になろうな。お前は方向音痴だから、俺がお前を見つける。絶対見つけるから」って言ってくれた。生まれ変わって、あなたとまた生活できるなら、私はあのアパートから始めたいな。あなたも? -
母ちゃんの嘘
お母ちゃん。これまであなたにどれだけ嘘をつかれたことでしょう。
貧しかった幼少期。あなたはいつも自分のおかずを残し、私たちにそれを食べさせました。「母ちゃんは食べないの?」と聞くと「お腹いっぱいだから」と腹の虫を鳴らせて。
雪が降った日もそう。駅まで迎えに来た母ちゃんに「待った?」と聞くと「ううん」と首を横に振る。その肩には雪がうんと積もっていました。
私が切迫早産で入院することになった時。母ちゃんは一度も面会に来ませんでした。たった一人で過ごす十月十日。陣痛が来ても背中をさする人もいなければ、励ましてくれる人もいない。それはもうさみして、悲しくて。病室をこっそり抜け出して公衆電話から母ちゃんに電話したことは数知れず。
「いま忙しい」
「明日朝早いから」
母ちゃんは言い訳を並べました。そんな母ちゃんに腹を立て、私は陣痛がきたことすら教えませんでした。しかしあとで知ったのです。その時母ちゃんはがんで闘病していたのだと。仕事が忙しいのも全部嘘。朝が早いなんていうのも真っ赤な嘘でした。その頃母ちゃんは仕事を辞め、毎日放射線治療に通っていました。出産の痛みはやがて喜びに変わります。でもがんの痛みはそうではありません。いつだって、痛みと、恐怖と、隣り合わせ。それでも母ちゃんは言いました。「嘘をついて悪かった」と。「お前に心配をかけたくなかった」と。それを聞いて私は勝手に腹を立てたことを心底悔やみました。
結局母ちゃんは娘が生まれてすぐこの世を去りました。最後まで「手術をすれば治ると言われている」と嘘をついて。
そんな母ちゃんを見て私はあなたのような強くてたくましい母になりたいと思いました。
これまで数々の嘘をついてきた母ちゃんですが、私への愛に嘘はありませんでした。
生まれ変わってもまたあなたに会いたい。幸せだったと伝えたい。母ちゃんも「そうだ」と言ってくれるでしょうか。その答えをいつか教えて下さい。
くれぐれも嘘は抜きにして。
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