第13回受賞作品つたえたい、心の手紙
第13回受賞作品紹介(6作品)
令和2年5月1日~9月30日までの期間に募集しました、第13回「つたえたい、心の手紙」は総応募数1,174通の中から、審査員による厳正な選考の結果、下記の方々が受賞しました。 今回も数多くの方にご応募いただき、誠にありがとうございました。
受賞作品一覧
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あの時の涙を忘れない
今年も、あの八月十五日、終戦の日がやって来ました。 ずっと同居していた、夫の父である義父は、昨年九月九日に、満百歳で天寿をまっとうし天国へ旅立ちました。
この義父は、終戦を目前にした昭和十九年、太平洋戦争の折、中国にて敵兵に撃たれ、二十五歳の若さで左腕を無くしていました。その時、敵の小銃弾による左腕貫通銃創にて負傷したにもかかわらず、川を渡り仲間に追いつき、野戦病院に収容されたという驚異のエピソードの持ち主です。ここで手当てを受けたが傷が悪化、無念の左腕切断に至り、十ヶ月後に退院して日本に戻り、陸軍病院にて加療に専念、終戦となったそうです。
私が嫁いで来てから感じたのは、義父はとても器用な人で、何にでも、何度でも挑戦する人でした。三十代で障害者用のバイクの免許を取得すると、八十代の後半まで自分の足としてフル活用していました。小型の農機具は、管理機や運搬車、そして除雪機まで右手のみで操作してくれました。本当に感謝しています。
こんな器用な義父でしたが、自分の力では出来ない事が二つありました。 一つは右手の爪切りです。これは私が嫁いでから亡くなる二日前まで私が担当しました。 もう一つは合掌です。毎年終戦の日、義父は戦地で生命を落としたり、異国の土となり遺骨も戻らなかった戦友の無念を思い、長い時間、黙とうを続け冥福を祈っていました。
そして昨年は、家族との別離がいつの間にか射程距離に入っていたのでしょうか? 突然、右手を立てて拝み始めたのです。そう、義父のもう一つの不可能は合掌でした。人間は傍らの弱々しい生命に出合うと、骨身を惜しまず、いたわりたくなるんでしょうね。私は咄嗟に介護ベッドにいる義父の背中を右手で支え、義父の右手に私の左手で合掌しました。義父の目からは一筋の涙が私の手に落ちました。私の目からも大粒の涙が。
最後に「いい人生だったよ、ありがとう」の言葉が、その後一ヶ月程して義父は家族に見守られ、この世を去りました。「ありがとう」 -
急須の思い出
父さん、そちらの世界はいかがですか? こちらの世界は今コロナ禍で大騒ぎです。 昨日お茶を飲もうと急須を手に取った時、うっかり落とし壊してしまいました。それで子供の頃の父さんの言葉を思い出しペンをとりました。
小学二年生の時でしたね、私が母の大切にしていた急須を床に落とし割ってしまった時「急須だけに、万事休す」と冗談を言いながら「形あるものはすべて壊れる」気にするなと励ましてくれた。あの時は、怒った母の顔が一瞬に笑顔になった。父さんはよく冗談を言うのが好きでしたね。 父さんが亡くなってから、景気が悪くなって旅行の仕事は廃業したんです。と言うより、いつも隣の机でパソコン作業を手伝う父さんがいなくなって気力が無くなったことが本音かな。 会社を整理してそれからは、アルバイトをしながら生活しているんだけど、コロナ禍の影響で三ヶ月も自宅待機を余儀なくされていてね。この機会にと部屋のかたづけをしていたら、96と書かれた父さんの書いたメモ書きが出てきた。
小さな会社の自営業は金銭的にも毎日が苦労ばかり、そんな時、父さんがさりげなく書いたメモ。
その時の父は96という文字を読むと苦労だろ、上からも下からもどっちから読んでも苦労なんだよ。自分だけが苦労しているのではないぞ、相手が降参するまで頑張るんだと励ましてくれ、やっとの思いで仕事をとってきた日に、相手が降参してもらった仕事だろ、53を96の両端につけて5963、ご苦労さんだ。そう言ってその日、ビールで乾杯してくれました。
今コロナ禍の影響で仕事がない毎日、死にたい気分になっていた私の気持ちはこのメモで勇気づけられました。父さんはきっと天国から「こっちにはまだコロナよ」と言うかもしれませんね。 急須を壊してしまった時のもう一つの言葉が今でも忘れられません。
「出会ったものは必ず別れる運命にある」 -
お母さんへ
やっと今日、写真の整理をしました。
お母さんの結婚写真。つのかくし。となりのお父さんも意外とイケメン。
お母さんの小学校教員時代の写真。はじめて見つけた写真。生徒達は皆、丸刈り、おかっぱ、おさげ髪。学芸会、運動会、修学旅行、入学式、卒業式。何枚も何枚も出てくる教員時代の写真。 赴任先の小学校、どの小学校の写真でも、生徒達はにこにこしてる。お母さんも髪はふんわり内巻きボブ、清楚できちんとした印象の服。生徒達に負けないほどのにこにこ笑顔。どれも、どれも、全部笑顔でキラキラしてる。
小学校、中学校、高校、大学。私のアルバムにはお母さんは、ほとんど登場しません。
仕事仕事で忙しく、参観日、入学式、卒業式、運動会など学校行事に一度も来てくれなかったし、お出掛けも旅行もありませんでした。
いつも「大丈夫よ」と平気そうにしていたけど、運動会で皆が家族でお弁当を食べる中、私だけ一人で食べるのは、さみしかったの。
やっと教員生活も終り、退職後はゆっくりできるかと思ったら、病気の発覚。
お母さん悲しかったね。怖かったね。私も悲しかった。けれど、通院時はいつも一緒で、帰りに買い物したり、お茶したり。はじめてお母さんと一緒にゆったりと時間を過ごすことが出来て。大切な愛おしい日々でした。
入院後、外泊が許された時、玄関で撮ったお母さんと私の写真。お母さんの細い腕が私の腕に“助けて”というようにからめられている。その次の外泊、またその次の外泊、その度にお母さんが細く小さくなっていく写真。
私の頭の中のお母さんは、そんな悲しい写真の中の姿だったの。
でも、今は違う。病気で苦しむお母さんはお母さんの人生のほんの一部。青春時代、大好きな仕事をしてキラキラしているお母さん。笑顔で懸命に駆け抜けた人生。教師として凛と立つお母さんの写真。一枚だけ私の鞄に入れますね。 -
甘いウインナーカレーのおかわりを
僕はお母さんの三十才半ばの子供。末っ子でいつも甘えてた。大好きでいつも引っ付いていたね。
でも、ある日から一緒にいるのが嫌になって避けるようになったのは気付いていたよね。反抗期かな? 参観日に友達から「お前のお母さん、お婆ちゃんみたいだな」って言われてからだった。着物姿はお母さんだけ。友達のお母さんは花柄のワンピース。それに友達は長男が多く、十才位年の差はあったかもね。仕方ないのは分かっていたんだけど若いお母さんの方が良かった。だってお婆ちゃんは早く死んでしまいそうで。
「もう学校に来ないで」と言い放ち走って帰ったね。なぜか涙が止まらなかった。とんでも無い事をしてしまったのではないかと。
その日の夕食はちゃんと覚えている。カレーライス、それもとっても甘いヤツ。肉嫌いな僕のために、肉に代えて大好きなウインナー入り。お母さんの顔を見る事ができず一杯でやめた。本当はおかわりしたかったんだ。お母さんは何も無かったように「もっとお食べ、もっともっと」と笑顔を投げかけてくれた。気にしなくて良いよと言う感じで。
それからもう参観日は来なかったね。先生から、「たまにはお母さんに来て下さい」と手紙を預かったけど帰る途中、川原に捨てたんだ。渡したらお母さん困るだろうなと思って。
本当は、元気な姿で手を挙げ答えるところを見て欲しかった。家で誉めて欲しかった。でも、やっぱり来てともう言えなかったんだ。
今、生きていたら、「何をいつまでも気にしてるんだい。全く覚えてないし、本当に忙しかったと思うよ。バカだねえ」と笑ってくれるかな。
お母さんが入院し、見舞いに行った時も僕の身体の心配をしてくれていたよね。痛いのも我慢して笑顔でね。いつも優しかったよ。
還暦も過ぎた今日でも、その一言をずっと気にしている僕がいるんだ。
ちゃんと謝っておけば良かった。今でも遅くないよね。許してくれるよね。
ゴメンね、お母さん。ただ、ただ恥ずかしかっただけなんだ。ゴメン。
寿美子さんが、僕の母親でいてくれて本当に良かった。ありがとう。 -
耳の形
お父さんお元気ですか、いやそんなわけないでしょう。 なぜなら、お父さんは私がお母さんのお腹の中にいる時に戦争に出征され、その後私が生まれて百日あまりで戦死されたのですから。
でもこんな八十二才の年になっても、まるで小さな子供のように口をとんがらせてお父さんの耳もとに近づいてつたえたい事があるのです。 それは、今まで生きてきて折にふれてお知らせしたいことが沢山ありました。私が嫁いだ事や孫ができた事、お母さんがお料理コンテストで賞をもらった事など、きっとお父さんもいっしょになって喜んでもらえただろうと思います。 ですが今度はそうではなく大発見なのです。
私は今までお父さんの写真を一番格好のいい角度から撮った軍服姿のものを机の上に飾っていました。そして見える右の耳の下の方がややふくらんでいるなあと思っていました。もうセピア色になったその写真をなぜか拡大鏡で見つめていたら、その耳の形が孫の耳にそっくりでした。
自分としては、真実の発見なのです。他人から見れば、とるにたらない事かもしれませんが私にとっては、人間のルーツを見つけたように思いました。父、私、孫へと血はつながるものでしょうね。
私が生れた時は父は戦地でしたし、物心ついた時はもうこの世にはいませんでした。 大きい声でもささやきでも「お父さん」と呼んだことはありませんでした。 私がセピア色の写真を拡大鏡でながめて発見した血のつながりや命の大切さは、心の底から尊いものと思います。
願わくは私の耳もとへ「そんなに似ているかな」とお父さんの返事が聞こえてほしいものですが、叶わぬ望みゆえ観念して今の私の命をていねいに生きて行きます。 -
笑顔の宝物
貴女の息子は六才になります。そして貴女が逝って六年を数えます。
妊娠中にわかった癌、何度も何度も家族で話して。おとなしく控えめな貴女の初めての自己主張「産みたい」、なんと頑固だった事か。もうお腹の赤ちゃんの立派なママだったんだよね。最後は、貴女の強い決意で小さな生命を迎えました。母になった貴女は、神々しい程の美しさでしたよ。
ママになって五ヶ月目。ずっと笑顔で癌と闘っていた貴女が、初めて苦しいと訴え病院へ、もう帰ってはきませんでした。あの日の強い瞳の色は決して忘れられません。「お願いします」と、この腕に渡された赤ん坊は、とても軽くてそして、ずしりと重かった。 正直、覚悟はしていたけれど、なんでだよって叫びたかった。私ね、本当は自信なかったの、ただこの子を抱きしめるしかなかった。息子との同居、これからの育児、精神的にも体力的にも余りにも真っ白。夜中にミルクを飲ませながら、写真の前で何度も泣きました。ごめんね、心配をかけたよね。
そんな私を支えてくれたのは、いるべき場所にいない貴女でしたよ。そんな時の貴女はいつも笑ってた。癌。怖かったはず。貴女はでも笑顔だった。 本当は甘えんぼの末っ子。お願いします、お願いしますって、私に教えてくれてたんだよね。強くなる心の笑顔を教えてくれた。赤ん坊の未来を誰よりも信じて。 私、今、何とか頑張ってます、安心してね。モットーは笑顔。ママ友に元気なお婆ちゃんて呼ばれてます。
幼稚園で、お友達にママはと聞かれるみたい。ママはお写真だよ、死んじゃったと答えたよと笑顔。強く優しい、とても良い子です。時がくれば教え伝えねばと思います。命はどれ程に大切か。ママの強い覚悟と笑顔で迎えた貴方は、どれだけ愛され望まれた存在なのかと。ママは貴方の未来を信じてる、だからきっと今も笑顔だよと。
見ててくださいね。育児っていつも、喧嘩をしたり、叱ったり、泣いたり、迷ったり。私、笑ってますか。笑顔ですか。駄目な時は雨でも降らせてください。
本当に有難う。こんな素敵な宝物を残してくれて。
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