第12回受賞作品つたえたい、心の手紙
第12回受賞作品紹介(6作品)
令和元年5月1日~9月30日までの期間に募集しました、第12回「つたえたい、心の手紙」は総応募数1,001通の中から、審査員による厳正な選考の結果、下記の方々が受賞しました。 今回も数多くの方にご応募いただき、誠にありがとうございました。
受賞作品一覧
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紡ぎあう愛
お母さん、あなたが亡くなった時、私はなんて親不孝な娘だったのだろうと思う気持ちを止められませんでした。花嫁姿も見せていない、孫も抱かせてあげられていない。しかしそんな娘をあなたは愛情いっぱいに育ててくれましたね。お母さんを思い出すと溢れでてくるのは、笑顔で抱きついた温かな思い出ばかり。小さな私の手を繋いだ手の温かさ。ランドセルの背中にむかっていつも言ってくれた、いってらっしゃいの温かさ。思春期でぶつかりあっても最後まで私を受け止めてくれた温かさ。社会に出てもあなたはずっと私を子どもとして、温かく見守ってくれました。たとえどんなに傷ついても、見守ってくれる戻れる場所があることは私の心の支えでした。その手を無くしてからようやくその手の偉大さを知ったのです。
そんな私にも婚期が訪れ、かわいい子どもにも恵まれました。子の温かさがお母さんを思い起こさせます。あなたにこの温もりを感謝とともに伝えたかったと。だから私は子からもらう幸せと、あなたにこの幸せを伝えたかった淋しさでいつも涙を流してしまいます。そうすると小さな手で「いたいのいたいのとんでいけ」
と娘が私の頭を撫でてくれます。こんなところまでお母さんに似てくれているのですよ。私は不思議と育児に関して悩みません。それはお母さんと同じようにしてあげていたら、とても幸せでうまくいくからです。きっと愛情を受けたことを心がたくさん覚えていて、その愛情を娘へと紡いでいっているからなのでしょう。お墓参りのときは、いつもこの愛の連鎖をお母さんに伝えたいと思っています。きっとこの想い、空まで紡いでいけているよね。 -
「スイカ」と答える理由
私ね、人生の最後に食べたいものは何ですか? と聞かれたら昔から迷わず「スイカ」と答えていたのを知らないでしょう?
本当にスイカは一年中食べていたい大好きな食べ物。でも、他の人は、その質問の答えの理由をちゃんと言えるのに、私はスイカの思い出なんて全くなかったの。でも、絶対に最後はスイカが食べたいって変わらず言っていてね。自分でも不思議だなぁって思ってた。
そしたらその理由がね、最近になってやっとわかったんだ。それも突然に。妹が、お母ちゃんの口から聞いたことを私に教えてくれたのよ。お父ちゃんとお母ちゃんが亡くなってもう十七年以上も経った今頃わかるなんてね。
妹が言うには「お姉ちゃんがお腹にいるときにね、つわりの辛さからお母ちゃんが『スイカが食べたい』って言ったんだって。まだスイカの季節には早かったのに。そしたら、お父ちゃん黙って出て行って一日中帰って来なくて、暗くなってやっと帰ってきたときに、小さなスイカを抱えていた」と。
妹からその話を聞いたとき、スイカを抱えたお父ちゃんを見たお母ちゃんの申し訳なさがすごく伝わってきてね。 だって、あんなに貧乏だったんだもんね。我が家。近所でも評判の貧乏。いろんなことを家族みんなが我慢しなくちゃいけない貧乏。 それを知っているのに言葉にしてしまったお母ちゃんの後悔と、どうにかしてスイカを食べさせたいって思ったお父ちゃんの辛さ。バスに乗る余分なお金もなかったから、きっと歩いて町に出たんだろうね。だから一日かかったのかもしれない。
お母ちゃんは申し訳なくて、やっと買えただろう小さなスイカを見て泣いたんだってね。 そんな六十一年前のスイカの出来事を聞かせてもらったから、私の最後に食べたいものは、「スイカ」って昔から言い続けていたのがやっと自分で納得したよ。
お母ちゃんのお腹の中で食べたスイカは、それはそれは美味しくて忘れられない思い出に残る味だったんだろうね。食べさせてくれてありがとう。 -
カーネーション
最後にお母さんに嘘をつきました。あのカーネーションは青でした。 今年の母の日、閉店間際の花屋へ駆け込みました。仕事が遅くなってしまい、やっと見つけたお店でした。それでも母の日用の花束は売り切れで、店の奥の売れ残った数本のカーネーションを買ったんです。青いカーネーションでした。
お母さんはピンクが好きでしたね。元気の出る色だからと言っていました。だから私は毎年ピンクのカーネーションを渡していたのに、どうして最後の最後だけ青になってしまったんでしょう。 私は病室で小さな青い花束を「母の日だから」と言って枕元に置きました。あの時、脳にできた腫瘍が大きくなってしまって、お母さんの目は見えていませんでしたね。だから私は、青でいいやと思ったのかもしれません。いいえ、どうせ分からないのだから何色でもいいだろうと思いました。
すると、あなたは「綺麗ね」と小さな声でつぶやきました。お母さん、あのカーネーションはピンクではありませんでした。深海みたいに寂しくて、血管みたいに静かな青でした。私はバツが悪くて早めに病室を出てしまいました。母の日なのに、お母さんに感謝の言葉も言えませんでした。
その翌週、あの青いカーネーションは棺桶の中にありました。菊やユリにまじって、あなたの足元に置かれていましたね。あの日もう一軒花屋を回っていたら、前日に用意していたら、お母さんの好きなピンクのカーネーションを渡せたかもしれない。白足袋を履いたあなたの小さな足を見ながら、何度も後悔しました。
最近になって、私は青いカーネーションの別名を知りました。「ムーンダスト」です。その名には「月のように柔らかな包容力のある花であってほしい」という思いが込められているそうです。それはまるであなたでした。お日様の下では見えないけれど、いつも空で見守ってくれている今のあなたそのものでした。
お母さん、あのカーネーションは青でした。フランス人形の瞳のような、宇宙から見た地球のような美しい青でした。来年の母の日はピンクと青どちらのカーネーションがいいでしょう。両方にしておきましょうか。 -
母を看取る
お母さん、お母さんの大好きな施設長が、「最後は娘さん達で看取られては、いかがですか?」と、私達一人ひとりの顔を見つめて、思慮深く尋ねられた。とうとう、その時が来たと思ったよ。だから、私達三人交替でね。付きっきりで、お母さんのそばを離れなかった。
浅い息が時々止まる時、怖かった。「お母さん! 息して息して」と怒鳴ったよ。
お母さん聞こえていたかなあ。ごめんね。延命治療行わなかった。それが、お母さんの希望だったし、私達娘の希望でもあった。でもね。水のような点滴と酸素吸入だけ。本当にこれでいいのか? 自問し続けたよ。もっと違う治療法があるのではと思ったりして、苦しかった。
しかし、一番苦しいお母さんが一週間も頑張った。すごいよ。辛かったでしょう。食べず、飲まず、栄養や薬一切なし。見ている私達も辛かった。今でも、あの時のお母さんの姿を思い出します。
お母さんは最後の最後まで、お母さんでした。私達に見せてくれたのですね。生を全うすることの厳しさ辛さ、そして大切さを。生きていることの素晴らしさをその姿で教えてくれました。ありがとう。
お母さんは私達の自慢の母です。生前、お母さんが言っていた言葉をよく思い出します。
「お金は天下の回り物! クヨクヨしたら、あかん」
「一生懸命しすぎや! ぼちぼちやり」
おおらかなお母さんの声に包まれて、今、私は生きています。生きて生きて、生き抜いて、お母さんがいる天国へ行くつもりです。その時は、「朱美ちゃん、よく頑張ったね」と褒めてね。 -
戒名の意味
今年で十年になりますね。風邪一つ引かないおじいちゃんが癌に心臓を止められた時、私の時も止まったように感じました。寂しくて悲しくて、世界が遠ざかっていくようでした。 生後数ヶ月の記憶がまだ残っています。毎日のように散歩へ出て、「大事な子や」と皆に話してくれましたね。そして、どんな小さなことも「ほい、おりこうさん!」と褒めてくれました。高校生になっても、たとえご飯を食べただけでも。私はそれに救われていました。難病で生まれた自分は、皆のお荷物と思っていたから。おじいちゃんの存在が、言葉が、そんな自分を認める瞬間を与えてくれました。だから、このお別れは自我の喪失でもありました。
葬儀でご住職が、「戒名の意味は『今度は一人にしない』。故人の温情な人柄を表します」と教えてくださったけど、ただ孤独で…… 。その意味に気付き始めたのは五年後のことでした。 入社式で会った同期から突然のプロポーズ! 唐突すぎるし、病気も引け目で断ったけど、「全部含めて『あなた』だから」という言葉に最後は心を委ねました。
結婚して相手を知る程、気付いたことがありました。夫は努力家で、謙虚で、オシャレだけど写真のセンスはイマイチで、ご飯がよく口に付いたままで、牛乳を飲んだ後のコップに平気でお茶を注ぐ人。「おじいちゃんやん!」って家族皆で笑いました。
何より驚いたのが着物です。おばあちゃんが「お父さんきっと喜ぶに」と夫に譲ってくれた形見の着物が寸分たがわずピッタリで。撮った写真には着物を包むように白い光が写っていました。あれは喜んでくれたのですか?
そして去年、娘が誕生しました。小さな掌に特徴的な一直線の手相を見つけました。「こんな所におじいちゃん!!」って皆でまた笑いました。
姿形が無くとも、どこかで面影を見つけては思い出話に花を咲かせる日々です。私たちが一人で寂しい思いをしないよう、皆で仲良く過ごせるよう、寄り添ってくれているんですね。今の私は、妻として、母として、そしてあなたの孫として生きる自分に愛おしみを持っています。おじいちゃん…… もう、御礼の言葉も見つかりません。
来週、皆でお墓参り行くでね。絶対、出てきとってね! -
もう少しあなたと生きたかった
あなたと出会い十年の結婚生活。それも半分以上がお互いに自宅に住む別居生活で…… 。あれ程入籍しよう、同居しようと言ってくれたのに今となっては、一緒に住めばよかったの後悔ばかり。あんなに早く逝ってしまうなんて思ってもいませんでした。
私は教職に没頭、一生独身と心に決めていました。まさか六十一才の私に七十才のあなたから結婚を申し込まれるなんて夢にも思いませんでした。私は、二回会って話を聞いただけなのに、あなたの慈愛溢れる人柄にひかれ二つ返事で承諾。
数日後、父母の墓前に額(ぬか)ずき「典子さんを下さい。必ず幸せにします」と挨拶。その後、私の入退院に付き添い、一日も欠かさず花の水かえ、ウツに効能のあるマッサージやツボ押しは治療師のように力強くやさしい手当てでした。ある日、友人が「遠方だけどウツを治療できる漢方の先生がいるってよ」と教えてくれました。あなたは次の日、その治療院に車で連れて行ってくれました
私は九年間に九回の入院で半信半疑でした。私は、助手席でぐったり苦しいばかり。 初めて出会った鍼灸師の先生は、「必ず完治します。食事と薬を守る事」と。それ以来、多忙な活動家で研究を続けているのに、週四回治療院に連れて行ってくれました。お蔭で本当に元気になりました。あなたは約束通り、本物の結婚式を挙げてくれました。二人だけで花嫁衣裳を着て涙がこぼれました。本当にありがとうございました。
それから間もなくあなたは、心筋梗塞、肝癌の再発、癌転移の入院治療等でやっと私宅に同居しました。わずかな間でした。
最後の緩和病棟で苦しい息をしながら「僕は、いつも君のそばに居て支えているよ。一人じゃないよ。僕と一緒だからね」と言ってくれた言葉。私のこれからの人生の宝物です。今日もあなたと一緒に歩いています。
ただ、もう少しあなたと生きたかった。二人で生きて行きたかった。
- ばあちゃん、捨てらんない
- 埼玉県
- 小松崎有美 様
- 35歳
- 孫の顔が見えますか?
- 奈良県
- 林美代子 様
- 65歳
- おじいちゃんの写真
- 岡山県
- 相根亜弥子 様
- 33 歳
- また逢う日まで
- 埼玉県
- 福崎ひとみ 様
- 61 歳
- お揃いの靴
- 神奈川県
- 谷浩子 様
- 49 歳
- 四つ葉のクローバー
- 埼玉県
- 安部直 様
- 74 歳
- 私の、おばあちゃんへ
- 宮城県
- 大谷晶子 様
- 28 歳
- 言えなくて、ごめんなさい
- 東京都
- 都野原かよこ 様
- 77 歳
- 冷たい百円玉
- 東京都
- 小野史 様
- 39 歳
- 何気ない風景
- 大阪府
- 坂井美予 様
- 25 歳
- 赤いカーネーション 母へ
- 福島県
- 佐川洋子 様
- 47 歳
- 古希(こき)の聖火ランナー
- 千葉県
- 渡会克男 様
- 69 歳
- 私の代弁者
- 北海道
- 佐々木美和 様
- 34 歳
- 何処かでお会い致しましょう。
- 山梨県
- 堀内登代美 様
- 55 歳
- 母親に戻った母
- 埼玉県
- 小寺敦志 様
- 55 歳
- 同級生のお父さんへ
- 神奈川県
- 宇田川栄子 様
- 52 歳
- お父さんへ
- 秋田県
- 加藤逸子 様
- 75 歳
- 父の文箱
- 京都府
- 和田紀世美 様
- 78 歳
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